モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

トラディショナル・ハウス

12/6  タフロウト  

 この日はロバの鞍を修理するため町に出かけた。町中をロバと歩くと注目を浴びるため気が進まないが、鞍は8kgくらいある。ロバに乗せて行った。ロバはこの二日間、木に繋ぎぱなしだったので、久しぶりの散歩に少しはしゃいでるように見えた。

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(スークで鞍を直してもらう)

 修理を終え、私たちはいつもと違う道を歩いてキャンプ場に帰ることにした。その道中に「トラディショナル・ハウス」という看板があった。今日は別に何も予定はない。私たちは看板が示す方向に歩を進めた。

 別荘のような瀟洒なピンク色の建物が並ぶアスファルトの道の先に、土色の家々が建つ集落が現れた。オートアトラスでよく見た、泥と藁を固めて作った家だった。だが、ほとんどは崩れており、今は誰も住んでないようだった。トラディショナル・ハウスはその中にあった。

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(トラディショナル・ハウスの外観)

 どうやら古い家屋を観光客向けに公開しているらしい。案内してくれたのは、この家で生まれ育ったマッフートさんという40歳の男性だった。この家の造りは興味深いものだった。例えば、台所には穴が開いており、地下の家畜小屋と繋がっている。冬、家畜を寒さから守るためだそうだ。台所の向かいには浴室がある。浴室といっても浴槽もシャワーもない、ただの空間だ。井戸で汲んだ水をやかんで温め、ここで洗う(こういう家はベルベルの山村にはまだまだ多い)。台所の向かいにあるわけは、すぐにやかんを持ってこれるからだけではない。浴室の天井を支える木材の中には昆虫がいて、木を食ってしまう。しかし、台所の煙が浴室に流れてくることによって、虫を殺してくれるという。実に機能的に作られた家なのだ。

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(浴室)

 テラスに上がると、私のキャンプ場があるナツメヤシの林や新興住宅地が一望できた。瀟洒な家々が建っている辺りは昔、畑だったそうだ。「昔はみんな畑に出て働いた。でも今はカサブランカやアガディールで働きに出て、夏の休暇で帰ってくるだけだ」

「ロバもたくさんいたんだよ。今はロバはおろか人さえいない。こうした変化はぼくは好きではないね」

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(テラスからの展望)

 マッフートさんによると、この集落にはかつて27家族が住んでいたが、いまは2家族だけ。トラディショナル・ハウスは築500年。マッフートさん一家も20年前にこの家を離れ、近くにコンクリートの家を建てて暮らしているが、自費で毎年補強して家を守っている。

「僕はこの家が好きなんだ。ベルベルの歴史を守りたいんだよ」

 テラスには一つ部屋があった。なんだろうと思ってドアを開けると、そこにはダブルベッドと赤い絨毯が敷かれていた。

「ここはなんの部屋?」

「ゲストを迎えるための部屋さ。昔は祖父母が使っていた」

 ゲスト、つまり観光客が泊まれるように改装したらしい。

「一泊いくら?」

「300ディラハム(約3600円)」

 それを聞いて、な~んだ、と私は思った。歴史を守りたいとか格好いいこと言ってたけど、高い金をとって商売しようとしてるんじゃないか。だが、普通なら廃屋と化してしまうところを商売にしてしまうところが、彼らのしたたかなところなのかもしれなかった。

ロバを洗う

12/3-4

 アンチアトラスの中心地、タフロウトに到着しました。緊急で寄ったマラケシュを除けば、出発地のミデルト以来の大きな町。カフェやレストラン、土産物屋もたくさんあり、やっぱり町は楽しい。

 タフロウトにはキャンピングカーでやってくるヨーロピアン向けのキャンプ場がいくつかある。最初に訪ねた二軒はロバ同伴不可だった。唯一、私たちを受け入れてくれたのが「Granite Rose」。客はフランスからきた老夫婦だけで、チキンタジンとサラダをご馳走してくれた。

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(ご馳走になったチキンタジン。フランス人だけあって、そこらへんのレストランで食べるより美味い)

 日本人にはイメージしづらいかもしれないが、モロッコはヨーロピアンにとって身近な避寒地だ。彼らは海岸沿いや砂漠をドライブしながら、気に入った町があれば何日でも滞在する。この老夫婦も2010年から毎年のようにモロッコに来ているそうだ。「何泊するんですか?」と訊くと、「さあ。5、6泊…雨が降るまでいるよ」てな具合である。別に観光するでもなく、一日中キャンプ場にいて、日光浴しながらコーヒーをすすっている。私もまたそうした旅を志向する一人なので、いいなと思う。

 タフロウトは人が多く、標高も千メートルしかない。これまでいた2千メートル以上の高地と比べると日中暑く、これまで経験したことのない数のハエがロバにたかってきた。考えてみれば、この二ヶ月弱、一度もロバを洗ってない。顔に無数のハエが群がっているのを見ると不憫なので、今日洗ってやった。なぜか老夫婦も参加してくれた。犬のように体をぶるぶる震わせて洗いにくいかなと思っていたが、おとなしかった。おかげで汚れはしっかり落ちたようだ。

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(洗われた後に草を食べるロバ)

 強盗犯は結局まだ見つかっていない。しかし、ジョンダルミ(田舎警察)は事件後、私の安全にかなり気を使ってくれる。例えば、人気がない道を歩いていると後ろからパトカーでついてきたり、野宿すれば朝まで近くで車中泊しながら見守ってくれたりする。実はこうしたパトロールは強盗前からたびたびあったのだが、事件後は徹底している。ありがたくもあるが、常に見張られることによるストレスも感じていて、ときには「自由にさせてくれ」と強く言い合うこともあった。

 ゴールまで残り150キロ。ふつうに歩けば一週間もかからずに着く。これまでほぼノンストップで歩き続けてきたので、ここタフロウトではフランス人老夫婦のように何もせず、日光浴でも楽しみながら過ごすつもりだ。

 

<キャンプ場情報>

Granite Rose=中心地から約1キロ、ナツメヤシの林の中にある。テント一張り30DH。熱々のホットシャワー10DH。区画ごとに電源あり。敷地全域で使えるwifiあり。オーナーのオマルはタジン料理が得意らしく熱心に勧めてくる。

被害は防げたのか

 あの強盗被害は防げたのか。私の行動に間違いはなかったのか。今後、海外で野宿を伴う旅を考えている人にも参考になるように、私の考えをまとめておきたい。

 被害にあった後、旅慣れた友人からは「荷物を見せるなんて警戒心が足りない」と言われた。これには一応反論があって、私は別にすすんで見せたわけではなく、ほぼ強制されている。私は二人に「まず、あなたたちの身分証を見せてほしい」と言い、二人は「ない」と言った。そもそも、もし持っていたとしても偽造の可能性があるから警察署でなければ見せるつもりなかった。しかし粘り強く拒んでいると、年上の男はだんだん激昂し、それはほとんど脅しのようなものになった。結局は私が根負けした形だが、私がなお拒み続けていたら彼らは即行動に出ただろう。

 また、人里離れた場所に夜間、二人組がやってきたことを警戒し、すぐに荷物をまとめて山を下りるべきだという考え方もあるだろう。荷物を見せてしまった後、私も考えはしたが、すぐに断念した。まず、真っ暗な中、最寄りの村まで最低5時間はかかる登山道を歩くことは無理だと思った。湖までの道のりも険しく、今日はロバが二回もダウン(疲れて動けない状態)しているので、体力がもつのか不安もあった。そもそもしっかりした登山道があるわけではないので、道をよく知らなければライトがあっても下山は容易ではない。また二人は最初から強盗目的で近づいてきたのだから、近くで待機していたはずだ。山を下りるまでに追いつかれて実力行使に出ただろう。テントを撤収し、ロバに荷物を乗せるのは意外と時間がかかるので逃げ切ることは難しい。ただ、二度目の時点で彼らが強盗である可能性を真剣に検討しなかったことは私の落ち度である。モロッコでまさか強盗にあうとは想像もせず、油断していたことは否めない。

 もし私が抵抗せず、荷物と現金を素直に渡していれば暴力は受けなかっただろう。しかし、身動きできずに盗られるならまだしも、「出せ」と言われて自ら渡すことは私には出来なかった。犯罪行為には屈したくないという思いがあったからだ。これは価値観の問題であって、人からどうこう言われたくない。

 結局、彼らが湖まで私を追ってきた地点で強盗は防げなかったのではないかと思う。彼らは私の後ろをピッタリついたきたわけではなく、かなり時差をおいて追いかけてきている。山道は見通しもよくないから追跡に気づくことは不可能だ。だから、対策としてはガイドなどを伴い複数で行動すること。それくらいしか思い浮かばない。人気のないところで野宿してはいけないともいえるが、それを言ってしまえば元も子もない。

 私が旅しているアトラス山中は観光客が訪れるような場所ではなく、アジア人は大変目立つ。ましてやロバを連れているので、誰かに見られれば、それはたちまち村中に知れ渡るだろう。私は湖にたどり着くまでに計5人のベルベル人とすれ違った。彼らの中の誰かが「アジア人がロバと山を登ってたぞ」と広めたのかもしれないし、遠くから直接見られていたのかもしれない。

 私は元来小心者なので、野宿はなるべく民家の近くですることにしている。タムダ湖は、この旅で最初で最後の人里離れた場所での野宿だった。それで強盗にあったのだから運が悪いとしかいいようがない。しかし、ポジティブに捉えることもできる。私の旅の目的は別に千キロ踏破することでも、大西洋を見ることでもない。モロッコをより深く知るための旅なのだ。だから強盗にあい、ジョンダルミ(田舎警察)の仕事ぶりを間近で見、人々の親切に触れたことはいい経験になったともいえる。愛用のカメラを盗まれたことはとても残念だが、この思いは本心でもある。

 

11/17

 オウレド・テイマで迎えた朝はスークで聞き込み調査を行ったが、前日以上の手がかりは得られず、私たちは夕刻、アトラス山中のイゲルム・アグダル(Ighrem N' Ougdal)に戻ってきた。ジョンダルミの計らいで、今夜は村のカフェテリアのソファで眠れることになった。「あなたは何も支払う必要はありません。朝ごはんを食べて、ロバを引き取りに来てください」という。私は強盗にあってから本当に多くの人にお世話になっている。 

 

犯人発見?

◻︎トゥルエットを出発した翌日はあられ混じりの雨だった。雨宿りでカフェに立ち寄り、マラケシュで新しく買ったiPhoneを開くと、アップルから一通のメールが届いていた。5日前に盗まれたipadの居場所が分かったという内容だった。

◻︎私は電子機器に疎いため詳しくないが、アップル製品には「iPhone(ipad)を探す」というアプリが初期から入っていて、紛失した場合、別のアップル製品からどこにあるのか位置を調べられるらしい。そのためには、盗まれたデバイスがインターネットに接続される必要がある。 つまり、私のipadがネットに繋がれたので、その居場所が私のiPhoneに送られてきたのだ。

◻︎私のipadがある場所は、オウレド・テイマ(Ouled Teima)というアガディールに近い町だった。ここから280キロも離れている。私は強盗の翌日にお世話になったトゥルエットの署長に電話をかけ、ipadが見つかったことを伝えた。ここから私がSNSに疎いがためにちょっとした迷走が始まるのだが、それはここでは省略する。しばらくして、署長から折り返し電話があり「オウレド・テイマに行ってくれないか」と言われた。
「えっ、これからですか?」
「そうだ。私たちが車で迎えに行く」
「でも、ここからすごく遠いですよ」
「わかっている。君も一緒に来て、我々を手助けしてほしい」
オウレド・テイマは初めて聞く名前だが、地図を見ると、通ったことのある道だ。だから距離感もだいたい分かる。片道5時間以上、今日中に戻ってこれないだろう。困ったなと思った。私も犯人逮捕を強く願う者の一人だが、ipadが一度オンになったというだけで現場に急行するのは見切り発車ではないかと思ったのだ。しかし署長は興奮しまくっていて、有無を言わさない勢いだったので、私は「はい、わかりました」と返事をしてしまった。署長はトゥルエットに着任して3年たつが、強盗事件は初めてだと言っていた。おそらく定年も間近で、この事件が彼の最後の大仕事になるかもしれない。署長からアドレナリンが出まくっているのを私は電話口から感じていた。

◻︎ロバは再び最寄りのジョンダルミが預かることになり、正午ごろトゥルエットから二人の署員が到着した。ひとりは中年の次席とみられる男、もう一人はアナスという英語が話せる若い署員だった。二人もまたとても興奮しており、とにかく今日犯人を逮捕しようと燃えていた。私たちはトヨタランドクルーザーに乗り込み、はるか西にあるオウレド・テイマを目指した。
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◻︎オウレド・テイマに着いたのは日が暮れ始めた午後6時ごろだった。まずこの町のジョンダルミのオフィスに行き、次に警察署に向かった(ジョンダルミとポリスの仕事内容はほとんど変わらないが、ポリスは都市を、ジョンダルミは田舎を管轄する。オウレド・テイマはポリスの管轄だが、郊外を担当するジョンダルミのオフィスも置かれている)。私のipadがネットに繋がれた場所は、青果店や衣服店、電化製品店などの店が何十店舗も入った常設市場(スーク)の一角であることが分かった。私たちはそこに向かった。こちらはポリスとジョンダルミ、そして私と合わせて10人ほどの体制である。

◻︎まず警官四人がスークに入り、場所がだいたい特定できたところで私とジョンダルミがあとを追った。そこはテレビやコンピュータを修理する店だった。ガラクタのような古いテレビやPCが狭い店舗にいくつも転がっている。店は閉まっていたが、店主はまだ近くにいた。40代前半くらいの、髪が少し薄い背の高い男だった。見覚えはない。私たちは一応、店の中を簡単に見せてもらった。男によると、ipadがオンになった午前中は弟が店番してたらしい。弟もあとでジョンダルミの署に呼び出されることになり、兄は私たちと一緒に署に向かった。

◻︎署ではまず兄が取り調べを受けた。その間に弟がやってきたが、こちらも見覚えのない顔だ。30分後に兄と入れ替わりで取り調べ室に入った。ときどき英語が話せるアナスが待合室で待機している私の元にやってきて、「ipadのパスコードは犯人に教えたのか」「いま本体はどんな状態なのか」などと聞く。兄弟と私の発言から、矛盾点や不審な点がないか確認しているのだろうと思った。

◻︎しばらくして、アナスが手招きして私を外に連れ出した。彼によると、今朝の10時半ごろ、ひとりの若い男がipadを持って「icloudを交換したい」と兄弟の店にやってきたという(正確なニュアンスは不明)。店番していた弟はipadを開いて少し操作したがよく分からず断ったらしい。若い男に見覚えはなく、アトラス訛りのベルベル語を話していたという。アナスの見解では「この町をただ通り過ぎただけで、ドゥムナット(現場のタムダ湖から北に50キロの大きな町)あたりに住んでいるのではないか」ということだった。たしかに犯人である年上の男は1回目の会話で「故郷はドゥムナット」と言っていた。
「しかし、なぜ男はicloudを交換したかったのだろう」とアナスは私に訊いた。そのときピーンときた。待合室で待ってる間にネットで調べたのだが、私は前日に「iPhoneを探す」という機能を知り、すぐに「紛失モード」をオンにした。しかし、紛失モードをオンにすると、本体がネットに繋がったときに新しいパスコードでロックされて使えなくなってしまう。たぶん、画面がロックされて使えなくなったので、男はicloudについて店に尋ねたのだろう・・・。だんだん今朝の男の行動が分かってきた。なぜオウレド・テイマに立ち寄ったかは分からないが、スークの中でSIMカードを買い、インターネットを繋いだところ、画面がロックされてしまった。なので、近くにあったパソコン修理を扱う兄弟の店に立ち寄った・・・とすれば、兄弟はグルではなく、男とは全然関係ないことになる。

◻︎私がipadを紛失モードにしたのは、アップル公式サイトが「盗まれた場合もすぐに紛失モードにしてください」と書いていたからである。だが、それは個人情報を守るための処置であって、犯人捜索のためではない。紛失モードをオンにすれば、犯人はipadを使えなくなる。もし紛失モードはオフのまま「iPhoneを探す」機能だけ使えば、ネットに繋がってる限り、ipadの位置が私のiPhoneに表示され続け、犯人逮捕に大いに役立ったはずだ。これは私のミスだ。ipadは朝10:33にオンラインになったきりなので、本体はいまもロックされたままなのだろう。

◻︎アナスのもとにトゥルエットの署長から電話がかかってきた。署長はこれまでも頻繁に電話してきてはこちらの状況を確認したり指示を送ったりしていた。時刻はすでに夜10時を過ぎていた。アナスは私と電話を代わると、署長が何か言った。相変わらず英語とベルベル語を交えての会話で、なにを言ってるのかよく分からなかった。アナスに翻訳を頼むと、こう言っているようであった。「ポジティブな結果を残せなくて本当に申し訳ない。君が疲れてなければいいんだが。でも覚えていてほしい。ジョンダルミはいつも君とともにある」。アナスは「署長に伝えることはあるかい?」と訊いた。私は「あなたが謝る必要はありません。署員たちは私のためにハードワークしてくれました。本当に感謝しています」と言った。本心だった。

◻︎その日はオウレド・テイマに一泊した。翌日、つまり明日の朝、もう一度スークで聞き込み調査をする予定だが、たぶんいい結果は得られないだろうと思っている。夕方ごろ私たちはロバの元に戻り、その翌日に再再出発だ。

※ときどき文字がでかくなってると思いますが、故意ではありません。iPhoneでは更新しにくい・・・

再出発

 マラケシュに来るのは今回が3回目だ。銀行で金を下ろし、少し街をぶらついてみた。定宿にしている安宿や足繁く通った飯屋、スーク(市場)の連中の顔ぶれ、「アッラー」と叫びながら物乞いする盲人…何もかも初めてこの町に来たときと変わらない。おそらくこの変わりのなさがモロッコの魅力なのだ・・・と私は思った。

  マラケシュはこれまで二回とも一週間ほど滞在している。どちらもジュラバ姿で自転車で走り回っていたので覚えられやすかったらしく、多くの人から声をかけられた。「自転車はどうした?」という人もいた。「今回は自転車ではなくロバだ」と返すと、みんな目を丸くした。声をかけてきたほぼ全員が右目のけがはどうしたのかと聞くものだから、何十回も同じ説明を繰り返す羽目になった。
  マラケシュには2日滞在し、トゥルエットに戻った。バスから降りると、ジョンダルミの署長が車で待っていてくれた。署長によると、私がマラケシュにいる間、署員やマカダムなど5人ほどが私と同じルートを辿ってタムダ湖まで行き、現場検証を行ったらしい。署に着くと、ひとりの男が写った写真を見せられた。犯人と同じくらいの年格好で、田舎では珍しく一眼レフカメラを持っていたため、犯人ではないかと私に確かめたのだ。しかし全く見覚えのない男だった。とはいえ、ジョンダルミが全力を挙げて犯人を捜索していることは伝わってきた。
 私は日本の保険会社に提出するためすぐにでもポリスレポートを手に入れたかったが、それは無理とのことだった。私が下地を書き、アラビア語に翻訳されたレポートはすでにワルザザートの法廷に提出され、これから何らかの手続きが行われるらしい。手続きが終わると、それは日本の大使館に転送される。その後であればワルザザートか、首都ラバトでレポートを受け取れるが、少なくとも一週間はかかるだろうということだった。仕方ないので、ポリスレポートを受け取るのはアトラスの旅を終えてからになりそうだ。
  署の庭には私のロバが繋がれていた。ロバはいつもと変わらずしょぼくれた顔で草を食んでいた。手綱を引いて今晩の宿に向かった。宿では署長やマカダムら何人かを交えて食事をとった。私は署長に金がなかったときに泊まった宿の代金をこっそり手渡そうとしたが、彼は断固として受け取らなかった。そればかりか今夜の宿泊料まで払ってくれたのだ。
  いま私は何を感じているか。私を襲った二人についてはもちろん怒りを感じる。無抵抗の私に暴力を振るい、金品を奪ったあとも彼らはふつうに町か村で生活している。そのことに憤りを覚えるのだ。一方で、私は今回の件で実に多くの人たちから見返りのない親切を受けた。山から下りた私にパンとお茶をくれたヤギ飼いの男。私は熱いお茶をすすりながら、昔、国語の教科書で読んだ「温かいスープ」という話を思い出した。
  1950年代のパリ、貧しい日本人講師が小さなレストランで、金がないためにオムレツだけを注文すると、レストランのママが温かいスープをサービスしてくれる話である。終戦直後、日本は世界の嫌われ者で、作者はフランスでいろいろ辛い目に遭ってきたそうだが、「この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う」と書いた。
  この話を昔読んだときはなんの感慨も湧かなかった。しかし、改めてネットで全文を読むと、この話は心に沁みた。私はリアルにこの話を体験し、まさに作者と同じことを思った。私は二度と会うこともないであろう名前も知らないヤギ飼いの何気ない優しさが心にしみた。ほかにも、ジョンダルミやホテル、バス、そしてマラケシュで多くの親切を味わった。私はモロッコを嫌いになることはないだろう。
  明日からまた旅は続く。旅を始めてから一ヶ月経った。その間、ほぼ毎日20-30キロ歩き続けてようやく予定ルートの半分を消化した。アトラスは本当にでかい。マラケシュではカメラを買い直さなかったので写真を撮る機会はぐっと減るだろうが、風景や人々の表情は今まで以上に目に焼き付けたいと思う。

強盗の後に

 11月中旬の、標高2670mの山中である。気温は氷点下近くまで下がっていた。2人組に襲われた後、外に散乱した荷物を整理する気力も湧かず、ぼろぼろのテントの中に入った。寝袋と毛布二枚は無事だった。それでも明け方には霜がおりてくる。フライシートはもはや機能せず、水がテントの内側に染み込んできた。毛布にくるまり、震えながら夜を明かした。

 午前6時10分ごろ、ようやく東の空が白み始めた。テントを片付け、ロバに餌をやり、散乱した荷物をリュックの中に詰め直した。そして山を下り始めた。不安だった。果たして村にたどり着けるだろうか。

 タムダ湖は観光名所でもなんでもなく、はっきりとした登山道があるわけではない。昨日もタブレットの地図を頻繁に確認しながら、それでも何度も道を間違えながら何とか辿り着いた。タブレットを失ったいま、無事に村まで下りられるだろうか・・・。最初の3時間ほどは順調だった。しかし、やがて道を見失った。大きな岩が転がる干上がった川床を必死に歩いていると、上の方から声がした。ヤギ飼いの初老の男だった。

 「ティゴザの道はどこですか」と私は聞いた。

 ティゴザは湖から最寄りの村である。男は「こっちだ。そこから上に登れる」と私を指示した。ロバの手綱を引いて必死に斜面を登り切ると、男は「その目はどうした」と訊ねた。私の右目は大きく腫れ上がっていた(あとで鏡を見ると血だらけだった)。「昨夜、湖のそばでテントを張っていたら二人の男が来た。殴られて、金やカメラを盗まれた」。拙いベルベル語だったが、男は理解し、驚いたような顔をした。

 正しい山道に出て20分ほど歩くと、さっきのヤギ飼いが追ってきた。「お茶とパンを食べよう」と男は言った。すでに4時間近く歩いているが、まだ何も口にしていなかった。しかし、私は早く村まで出て警察を呼びたかったし、なに呑気なことを言ってるんだと思った。けれど、誘いを受けることにした。昨夜の男2人のお茶の誘いを断ったことがどこかで引っかかっていたのかもしれない。バカな考えかもしれないが、本当は我々はうまくやれたのに、誘いを断ったことで、不機嫌になったのではないかと思ったのだ。

 ヤギ飼いの男は風除けに使えそうな巨大な岩の陰に私を誘導した。その辺に生えている太い根っこがついたラクダ草を引っこ抜き火を付け、お茶を沸かし始めた。布にくるんだパンを取り出し、ちぎって、その上にバターの塊と蜂蜜をたらし、私に差し出した。コップに熱いお茶が注がれた。私たちは何も言葉を交わさなかった。だが男の温かい思いやりは私の心に深く染み込んできた。目に涙があふれてきた。寒くて不安だった私に、それはどれだけありがたかったことだろう。男は放牧の仕事を中断し、私を村まで案内すると申し出てくれた。

 山を下りきると平地になり、渓谷になった。陽光をたっぷり受けて流れる川は透き通って美しく、もし強盗に遭わなければ楽しい道のりだっただろうにと恨めしく思った。さらに1時間ほど歩くと4人の男が岩場に腰を下ろしていた。ジョンダルミ(田舎警察)の署長やマカダム(村長)らだった。ヤギ飼いの男がいち早く電話で連絡し、こちらに向かってくれていたのだ。4人とも英語はほとんど話せなかったが、私はベルベル語で事のあらましを簡単に説明し、計6人でティゴザまでの道のりを歩いた。ティゴザに着くとロバはヤギ飼いの男が預かることになり、ジョンダルミの車に荷物を乗せ、ここから10キロほど離れたトゥルエット(Telouet)という町に向かった。

 トゥルエットでは、まず病院で右目の治療を受けた。ドクターは英語を流暢に話した。私は治療を受けながら署長からいくつか質問を受けた。その後、町の外れにある署に行った。そこで真っ白なA4用紙を渡され、ことのあらましを英語で書くよう求められた。3枚分の報告書を書き上げた。それを英語がわかる若い署員がアラビア語に翻訳し、署長と部下が代わる代わるパソコンにタイプしていく。署長はさらに突っ込んだ質問をしてきた。

 ロープで身体を縛ったのは若い方か?テントを蹴ったのはどちらか?ナイフはどんな形状だったか?・・・私も日本で新聞記者をしていたころ、事件事故があると警察署でそんなことをよく丹念に質問していた気がする。タイピングがひと段落つくと、「ふう、疲れた」と署長は言った。「ありがとうございます」と私。署があるトゥルエットで待っていればいいのに、私をいち早く出迎えるためわざわざ隣村まで出向き、頻繁にかかってくる本部からの電話に必死に対応する仕事ぶりに、頭が下がる思いだった。「いや、タバコの吸い過ぎですぐに息が切れてしまうんだ」と署長は言った。

 「君にこの煙はよくないね」と言って、タバコを吸わない私を慮り部屋の窓を開けてくれた。「タジンはどうだったかね」と署長。病院から戻った後、「何を食べたい?」と聞かれたので「タジン」と答えた。そしたら彼の奥さんが作って署まで差し入れてくれたのだった。

 「とてもおいしかったです。僕も毎日タジンを作りますが、あなたの奥さんの方がずっと美味い」

 署長は嬉しそうに「サンキュー」と言った。

 「君はタシュラヒート(ベルベル語)を話すね?」

 「はい。少しですが」

 「どこで覚えた?」

 「ティネリールの近くで。今年の初めに遊牧民の家族と二ヶ月ほど一緒に生活して、覚えました」

 署長は「You see good」と言った。

 夕方になると署長に宿まで送ってもらった。トゥルエットには古く美しいカスバ(城砦)が残っていて、ちょっとした観光名所になっている。宿はそのカスバの目の前にあった。宿泊代は署長のポケットマネーで払ってくれた。宿の人たちもとても親切だった。ある人は私にこう見解を示した。「君が山に入っていくのを犯人に見られて、あとをつけられていたんだよ」。確かにあんなに険しい山道を夜間歩く理由は他にないだろうし、犯人の二人は極めて軽装だった(ひとりは何も持ってなかった)。それなのにナイフは持っていたから、確信犯だったのだろう。私もあとをつけられていたのだと思う。

 「犯人は捕まるとおもう?」

 「捕まるさ。ジョンダルミはとてもよく働く。都市の警察よりもね」

 ジョンダルミは田舎の人たちから大きな信頼を寄せられているのである。彼はさらに言う。「それぞれの村にはマカダムがいて、ジョンダルミと連携して犯人を見つけ出すだろう。彼らはどんな人間が村にいて、出入りしてるか全て掌握してるんだ」

 マカダムは日本でいう町内会長のような存在だ。私もこの旅で何度もお世話になっている。というより彼らはときに親切が過ぎたり、過度に干渉してきたりするので、疎ましく思うこともあるくらいだ(これは別記事で書こうと思っている)。宿で豪華な夕食をご馳走になり、一眠りした深夜0時ごろ、署長が宿まで迎えにきた。署から日本の保険会社に国際電話をかけるためである。失った現金は戻らないが、カメラなどの金はある程度、保険で返してもらうことができる。しかし保険会社の営業時間はモロッコの深夜から早朝までなので、署長が特別に署を開けてくれたのだった。

 手元には現金がなにもなかった。トゥルエットはアトラスの町としては比較的大きな町だが、銀行はない。私はバスでマラケシュに行くことにした。ロバは私が戻るまでティゴザの村人が預かってくれるという。私は明け方、一日一本しかないバスに乗ってトゥルエットを発った。

続く

強盗に襲われました

 11/10深夜、男2人組に寝込みを襲われました。

 場所はタムダ湖(Lake Tamda)。ワルザザートから50キロほど北にある、標高2670mの山中にある小さな湖だ。人里から5時間以上離れており、ふつうなら、夜に人が来るはずがない場所である。私は湖畔にテントを張り、午後8時までに眠りについた。

 同9時20分ごろ、テントの外で話し声が聞こえた。ありえないと思い、すぐに目が覚めた。テントから顔を出し、ヘッドライトで辺りを照らした。すると二人の男が近づいてきていた。

 一人は30歳くらい、もう一人は18歳くらいの少年だった。「よう」と二人。私はテントから顔だけ出したまま、少しだけ話をした。しかし向こうはアラビア語しか話せない。ただ、2人がワルザザート方面に行くことだけは分かった。年かさの男はテントのそばにあった私のガスボンベを見て「お茶を飲まないか」と提案した。

 寝ていたのに起こされて、不機嫌になっていた私は、申し出を断った。しかし男は諦められないのか、「ガスボンベを使っていいか」と聞く。この時点で、男が強盗のために来たのだとは思わなかった。迷惑なやつだと思ったが、断るのもしのびない。2人はお茶をつくり始めたが、大きな声で話をし、声を立てて笑うので、再びテントから顔を出し「お茶を飲んだら早く帰ってくれ」と言った。2人はまもなくテントから離れ、山の反対側に消えていった。

 1時間後、2人は再びやって来た。私はいい加減眠りたかったのでテントから出なかった。「おーい」としつこく声をかけてくる。私はテントのドアを開けた。年かさの男の言葉は相変わらずちんぷんかんぷんだったが、「お前はハシシを持っているだろう」というようなことを言っていることが分かった。リュックの中を点検させろと言う。

 「あなたは警察か」

 男は肯定も否定もせずに、「セキュリティ」という言葉を繰り返した。「治安維持のためだ」みたいな意味だろう。

 「身分証を見せてくれ」と言うと、「ない」という。

 「なら帰ってくれ」。すると男の態度は一変した。唾を飛ばしながら盛んにまくしたててきた。人里離れた山中でひとり野宿していることを不審に思ったのだろうか。私はまだ男を強盗とは思っておらず、自分が怪しい者ではないことを証明するためにパスポートを見せた。

 「私はふつうの日本人旅行者だ」

 「パスポートは分かった。問題はリュックの中だ」

 「それは困る」

 強引な物言いも気に食わない。しかし、男は気が狂ったかのようにしつこく要求する。このままだと、テントを破ってでも入ってきそうだ。私は観念してリュックの中を見せた。何も盗られないようにと、注意深く観察しながら。今振り返ると、リュックの中に盗む価値があるものがあるか物色するための言いがかりだったのだろう。男はロバの方も確認し、問題がないと知ると「申し訳ない」と言って去っていった。

 1時間後、三たび、外から声が聞こえた。と思うと、テントが激しく揺れた。どちらかがテントを蹴りあげたらしかった。嫌な予感がした。テントから顔を出すと、年かさの男がヘッドライトを取り上げた。手にはダガーナイフを持っていた。

 「すべて出せ」と男は言った。「金、タブレット、カメラ、全部だ」。この時点では私はどうすればこの異変を何事もなく切り抜けられるだろうかと考えを巡らせていた。要は出し渋ったのだ。テントから引きずり出された。背中を少年に蹴られ、頭を押さえつけられ、地面と腹ばいの状況になった。彼は片手に大きな石を持ち、肩や背中を何度も殴りつけた。「やめてくれ」と叫んだ。「タブレットはどこにある」と年かさの男が言った。私はなお「お前にはやらない」と拒んだ。反撃はしなかった。2人は理性を失うほど興奮していたので、反撃すれば殺されると思った。「お前を殺して、湖に沈めてもいいんだぞ」というようなことを男は言った。また「誰も助けは来ないぞ、ほら」と言って、大声で叫んでみせた。少年に腹を蹴り上げられ、もう一人が私の首をロープで締め付けてきた。息ができなくなった。少年はテントを切りつけ、持ち上げて上下に振り動かし、中の荷物を地面に落とした。

 タブレットと財布はショルダーバッグの中に入れていた。しかし二人はそれに気づいておらず、「タブレット、金はどこだ」と叫んだ。私は意識が朦朧とし、言葉を発することができなかった。やがて少年がバッグの中に貴重品が入っていることに気付き、彼のリュックの中に移し始めた。私の身体はロープで縛られ、身動きできなかった。あらかた盗み終わるのを見届けてから、「カメラのメモリーカードだけは返してくれ」と声を絞り出した。

 年かさの男は「分かった」と言って取り出してくれた。「財布の中にあるクレジットカードも」と言うと、それも返してくれた。私に抵抗の意志がないことを知ると、ロープをほどいてくれた。男は「アイム・ソーリー」と言って私の肩を叩き、山の中に消えていった。 続く。