モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

ネコブの日本人

 サガロ山脈を抜けて辿り着いたネコブ(Nkob)の周辺も、一面の銀世界が広がっていた。砂漠に近いと聞いていたので、私は最初、そこがネコブだとは信じられなかった。「この町で雪が降ったのは初めてだ」。町で会った誰もがそう口にした。

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地面が濡れたネコブのメインストリート

 ネコブは日本のガイドブックには載っていない小さな町だ。しかし、英語版「ロンリープラネット」には1ページ割かれている。そこでは「モロッコの穴場の一つ」と紹介されている。私も典子さんの宿で、ネコブに行くというカナダ人女性と出会った。彼らの目的はトレッキングだ。アトラスほど観光地化されていないが、見どころの多いサガロトレッキングの拠点として、欧米人の間では少し知られているらしい。町の郊外にはキャンピングカーでやってくるヨーロピアン向けの宿泊施設がいくつもあった。

 私の目的も、サガロの遊牧民を知ることだった。本当はサガロを抜けるときに自力で調べようと思っていたが、ひざまで積もった雪道を抜けるのに精いっぱいで、そんな余裕がなかった。あの峠の一軒宿から何とか半日でネコブまで来たものの、私の下半身はずぶ濡れで、安宿を見つけるとシャワーも浴びずに服を脱いで眠り込んでしまった。

 ネコブには、サガロのトレッキングツアーを手配する旅行代理店が一軒だけ存在する。山に詳しいのだったら、遊牧民のことも知っているにちがいない。翌朝、小さなオフィスに出向くと閉まっていた。通りがかった人が、携帯電話を取り出し、店の人に電話してくれた。5分後にいかにもベルベル人といった風貌の男性がやって来た。普段は店を開けておらず、客が来たら誰かが連絡をよこす仕組みになっているらしい。私は尋ねてみた。「ホームステイできる遊牧民の家族を探しています。既にトドラ渓谷で1カ月、遊牧民と過ごしました。ベルベル語も話せます。紹介してくれないでしょうか」。男性は「探してみよう」といったん引き受けてくれたものの、数時間後、電話がかかってきて「難しい」という結果だった。「あなたのような依頼は初めてだ。色んな方面に問い合わせてみたが、見つからなかった」という。やはり直接行くしかない。ネコブで2日も過ごすと、雪はほとんど溶けた。私は再びマウンテンバイクでサガロに行くことにした。サガロはネコブのすぐ近くというわけではなく、30キロ離れている。

 町の外れにある雑貨屋で食糧を少し買い込んだ。店を出ると、通りがかった男性から声をかけられた。「どこから来たんだい」。「日本から」。「本当に?」。男性は大げさに驚いた様子を見せた。男性によると、この町には日本人女性が住んでいて、もうじきゲストハウスを開くらしい。しかも、この近くらしい。繰り返すが、ネコブは「地球の歩き方」にも載っていない。ということは、日本人もほとんど訪れないということである。ネットにも情報はほとんどない。そんな町で、日本人女性が宿を開く―――。

 実を言うと、私はそのことを知っていた。あらかじめネコブについてネットで調べてみると、3,4件しかヒットしなかったが、そのうちの一つが朝日放送テレビ「こんなところに日本人」の公式サイトだった。つい最近、お笑いタレントの千原せいじが女性に会いに行ったらしい。そこには、「砂漠の中の広大な土地で暮らす女性」として紹介されている*。私も気にはなったが、だからといって、わざわざ会いに行こうとは思っていなかった。しかし、その男性は「会ってみないか」と強く勧めてくるので、行ってみることにした。

 *これを読んで、私はネコブを砂漠の町だと思い込んでいたが、実際は100キロ以上離れている。

 そのゲストハウスは、ところどころ緑がある茶色の大地の中に、ぽつんと立っていた。わらと土を固めて造られた伝統的な建物だ。ふつう、モロッコでも家は塀で囲まれているが、周りには何もなかった。看板はまだ出ておらず、誰かに教えてもらわなければ辿りつけないだろう。玄関のドアの前に立ち、「すみません」と声をかけてみた。すると中から60代くらいの女性が出てきた。まさか日本人が訪ねてくるとは思ってもみなかったようで、驚いた様子だった。女性は大きなオーブンでパンを焼いているところだった。

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砂の大地に、一軒だけぽつんと佇む首藤さんのゲストハウス

 首藤善子さんという。日本人と離婚した後、さまざまな国を旅行し、モロッコに落ち着いた。今は26歳年下のベルベル人ユセフをパートナーに、ゲストハウス開業の準備を進めている。番組について尋ねると、「ネコブの良いところを紹介してほしかったのに、ユセフとの恋愛物語に焦点が当てられていて、想像していた内容と違った。ネコブだけじゃ視聴率が取れないんでしょうね」とのことだった。宿自体は客はもう受け入れられる状態だが、電気が通っていないため、正式な営業許可はもらっていない。しかし、いつ電気がくるか分からないので、太陽光電池を設置して申請してみようと考えているということだった。

 畑を案内してもらった。テニスコート二面くらいある庭の一画に、ナスビやニンジン、カブなどが植えられている。まだ10センチほどだが、アーモンドやナツメヤシの苗木も植えられていた。建物の屋上にも上がらせてもらった。地平線まで茶色の岩山がずっと続いている。「何もないのがネコブの魅力なの」と首藤さんは言った。聞こえるのは風の音だけだ。数日前に降った雪はほとんど消え、太陽の光が気持ちよかった。首藤さんは、「あなたが来てくれてとてもうれしい」と言った。私も、遠い異国にいて、珍しく日本人旅行者が訪ねてきたら、同じことを口にするだろう。さえぎるものが何一つない砂の大地で、首藤さんは私が見えなくなるまで、ずっと見送ってくれた。

 

★首藤善子さんの宿はまだネットでも全く情報がないので、ここに掲載します。首藤さんの許可はいただいているので、興味がある方は連絡してみてください。

 部屋は2つ。屋上にテントも張れます。朝食付き一泊100DH、夕食は+50DH(食事は日本食ではなく、モロッコ料理)。電気は通っていませんが、夜は太陽光発電で作った電気が使えます。宿名は「さくら」。2018年2月現在、案内標識や看板はありません。町の外れにあるガソリンスタンドの近くから未舗装道路が延びているので、近くの人に尋ねるか、首藤さんの携帯番号(06-9703-0601)まで。

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ゲストハウスの居間。日本で買った桜の飾り物が置かれている