モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

再出発

 マラケシュに来るのは今回が3回目だ。銀行で金を下ろし、少し街をぶらついてみた。定宿にしている安宿や足繁く通った飯屋、スーク(市場)の連中の顔ぶれ、「アッラー」と叫びながら物乞いする盲人…何もかも初めてこの町に来たときと変わらない。おそらくこの変わりのなさがモロッコの魅力なのだ・・・と私は思った。

  マラケシュはこれまで二回とも一週間ほど滞在している。どちらもジュラバ姿で自転車で走り回っていたので覚えられやすかったらしく、多くの人から声をかけられた。「自転車はどうした?」という人もいた。「今回は自転車ではなくロバだ」と返すと、みんな目を丸くした。声をかけてきたほぼ全員が右目のけがはどうしたのかと聞くものだから、何十回も同じ説明を繰り返す羽目になった。
  マラケシュには2日滞在し、トゥルエットに戻った。バスから降りると、ジョンダルミの署長が車で待っていてくれた。署長によると、私がマラケシュにいる間、署員やマカダムなど5人ほどが私と同じルートを辿ってタムダ湖まで行き、現場検証を行ったらしい。署に着くと、ひとりの男が写った写真を見せられた。犯人と同じくらいの年格好で、田舎では珍しく一眼レフカメラを持っていたため、犯人ではないかと私に確かめたのだ。しかし全く見覚えのない男だった。とはいえ、ジョンダルミが全力を挙げて犯人を捜索していることは伝わってきた。
 私は日本の保険会社に提出するためすぐにでもポリスレポートを手に入れたかったが、それは無理とのことだった。私が下地を書き、アラビア語に翻訳されたレポートはすでにワルザザートの法廷に提出され、これから何らかの手続きが行われるらしい。手続きが終わると、それは日本の大使館に転送される。その後であればワルザザートか、首都ラバトでレポートを受け取れるが、少なくとも一週間はかかるだろうということだった。仕方ないので、ポリスレポートを受け取るのはアトラスの旅を終えてからになりそうだ。
  署の庭には私のロバが繋がれていた。ロバはいつもと変わらずしょぼくれた顔で草を食んでいた。手綱を引いて今晩の宿に向かった。宿では署長やマカダムら何人かを交えて食事をとった。私は署長に金がなかったときに泊まった宿の代金をこっそり手渡そうとしたが、彼は断固として受け取らなかった。そればかりか今夜の宿泊料まで払ってくれたのだ。
  いま私は何を感じているか。私を襲った二人についてはもちろん怒りを感じる。無抵抗の私に暴力を振るい、金品を奪ったあとも彼らはふつうに町か村で生活している。そのことに憤りを覚えるのだ。一方で、私は今回の件で実に多くの人たちから見返りのない親切を受けた。山から下りた私にパンとお茶をくれたヤギ飼いの男。私は熱いお茶をすすりながら、昔、国語の教科書で読んだ「温かいスープ」という話を思い出した。
  1950年代のパリ、貧しい日本人講師が小さなレストランで、金がないためにオムレツだけを注文すると、レストランのママが温かいスープをサービスしてくれる話である。終戦直後、日本は世界の嫌われ者で、作者はフランスでいろいろ辛い目に遭ってきたそうだが、「この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う」と書いた。
  この話を昔読んだときはなんの感慨も湧かなかった。しかし、改めてネットで全文を読むと、この話は心に沁みた。私はリアルにこの話を体験し、まさに作者と同じことを思った。私は二度と会うこともないであろう名前も知らないヤギ飼いの何気ない優しさが心にしみた。ほかにも、ジョンダルミやホテル、バス、そしてマラケシュで多くの親切を味わった。私はモロッコを嫌いになることはないだろう。
  明日からまた旅は続く。旅を始めてから一ヶ月経った。その間、ほぼ毎日20-30キロ歩き続けてようやく予定ルートの半分を消化した。アトラスは本当にでかい。マラケシュではカメラを買い直さなかったので写真を撮る機会はぐっと減るだろうが、風景や人々の表情は今まで以上に目に焼き付けたいと思う。