モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

砂漠>山?

 散歩から帰ってくると、家の前に見慣れぬジープが一台、止まっていた。別にこの辺りで車を見ることは珍しいことではない。キャンプ地で働くサルムの親戚が二日に一回は車で様子を見にくるし、レンタカーに乗った欧米人観光客が道を尋ねるため立ち寄ることもある。だが、そのジープはどちらでもなく、移動販売車だった。イッザによると、ジープはマアミドから二週間に一度来て、砂丘のふもとに点在する遊牧民の家に野菜や小麦粉、缶詰などを売って回っているらしい。近くに売店があるわけもなく、最寄りの町までは約70キロも離れている。買い物弱者である遊牧民にとって、移動販売車は欠かせない存在なのだ。商品の値段はかなり良心的で、例えば大きなオレンジは5つで3ディラハム(約36円)、イワシの缶詰5ディラハム(約60円)。町で買うのとほとんど変わらない値段だ。イッザがこの日買ったのはジャガイモ、ニンジン、タマネギなどの野菜を計10キロ、ほかに小麦粉やお茶、イワシの缶詰などだった。ジープは食料販売だけでなく、時にはタクシーとして、時には家畜を運ぶための移動手段にもなっている。

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オレンジの重さをはかる移動スーパーの店主

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この日、イッザが買った品物。青い藁の中身がナツメヤシの塊

 このように砂漠では、わざわざ町まで行かなくても最低限の買い物はできる。そう考えると、同じ遊牧民でも、山と砂漠の暮らしぶりには、大きな差があるといえそうだ。山の元遊牧民は、自身の生活を振り返るとき「つらかった」と否定的な言葉をよく口にする。逆に、砂漠の元遊牧民は、誰もが「砂漠はよかった」と口をそろえる。私も実際に砂漠に来てみて、その理由がよく分かる気がした。 砂漠はどこまでも景色が開けていて、気分がいい。開放的だ。トドラ渓谷も、頂上の見晴らしはいいし、空気も澄んでいる。砂漠も山も、どちらも素晴らしい。

 しかし、山にはやはり山の厳しさがある。標高二千メートル近いトドラ渓谷では、水を得るためには五時間以上かけて険しい山道を上り下りしなければならない。死角が多い岩山での放牧は常に家畜と一緒にいなければ見失ってしまう。冬は病気や寒さで死にやすい。買い物はもちろん移動販売車が来てくれるはずもなく、半日かけて町まで往復しなければならない。一方で、サルム家では家から気軽に歩いて行ける距離に井戸があるし、家畜も放し飼いですむためラクダ引きなど別の仕事をする余裕もある。

「砂漠の暮らしはストレスがない」

「もし雨が戻ればまた砂漠で暮らしたい」

 マアミドで出会った元遊牧民は誰もがそう口にした。嫌なことに「砂嵐」を挙げる人もいるが、それも「強いていえば」という程度のもので、それが砂漠の暮らしを躊躇させる要因にはなっていないようだ。車の排気ガスが充満し、人に雇われて生活する町の暮らしに比べれば、砂漠の暮らしは自由である。この「自由」であるという感覚が、厳しい環境にあっても彼らが遊牧民として生きる大きな支えになっているように思える。