モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

砂漠ツーリズム

 私が今回お世話になった一家の主は、サルムという。夜遅く、飛び込みで訪れた私を、快く受け入れてくれた50代後半のベルベル人だ。しかし、サルムは2日目の正午ごろ、ここから10キロほど離れたシェガガ砂丘のキャンプ・サイトに行ってしまった。シェガガ砂丘には、約10のキャンプ地がある。サラムはそのうちの一つで、ラクダ引きとして働いている。

 サルムが出発する直前、私は聞いてみた。

 「一緒に行ってもいいかな。砂丘がどんなものか見てみたいから」

 「今日は風が強い。やめたほうがいい」

 「大丈夫。砂丘をちょっと見たら、すぐここに戻る」

 「砂丘では目も開けてられないぞ。しかも、この家は向こうからは小さすぎて見えないぞ。お前一人では帰ってこれない。キャンプ地で俺とともに一泊するなら、ついてきてもいいが。明日には風はやんでいるだろう」

 早朝はまだ風も穏やかで、砂丘のシルエットがはっきりと見えた。しかし、今は砂が激しく巻き上がっているらしく、白くかすんでいる。確かに私は本格的な砂嵐をこれまで経験したことがない。ついていけば迷惑をかけるかもしれない。私は断念することにした。そして、サルムは結局、私が砂漠にいる間、帰ってこなかった。そのときは2月で、砂漠観光のシーズンだったから、連日観光客の対応に当たっていたのだろう。

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風がない日に訪れたキャンプ・サイト。観光客は既に帰ったのか従業員が3、4人いるだけだった

 サルムのように、砂丘のふもとにあるキャンプ地で働く遊牧民は珍しくない。井戸の周辺には、いくつのか遊牧民の家族が点在していて、何人もの男たちが家から通っている。しかし、砂漠の遊牧民は、もともと緑を求めて移動を繰り返す生活を送っていたはずだ。その意味で、彼らを果たして遊牧民と呼ぶべきなのかは、議論の余地があるだろう。サラム家は少なくとも20年前から、ずっとこの場所にとどまっているのだ。彼らは放牧こそ行っているが、移動はせず定住している。今では移動生活を送る遊牧民のほうが稀なくらいだ。その理由の一つとして、砂漠ツーリズムの隆盛が挙げられるだろう。

 しかし、半定住化の背景には、ツーリズムのほかにも、いろんな要素が絡み合っているようだ。例えば、干ばつ。かつて、シェガガ砂丘から約30キロ離れた場所に、イリキ湖という大きな湖があった。アトラス山脈に源を発するドラア川がザゴラやマアミドを経て流れ込んでいたのだ。その湖は、遊牧民だけでなく、動物たちにとっても貴重なオアシスだった。しかし、25年ほど前に枯れてしまった。その原因としてよく語られるのが、温暖化と、ワルザザート近郊につくられたダム湖だ。ダムによって水は止まり、ドラア川の下流が枯れてしまった。ザゴラで出会った元遊牧民のユセフ(42歳)は言う。「僕が幼かったころは、湖にはまだ水があって、大きな魚もとれた。でも、干ばつで次々とラクダが死んだ。父は遊牧生活に見切りをつけ、ラクダ22頭を売り、ザゴラに移り住んだ。今から30年前のことだ」

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25年ほど前はまだ水があったというマアミドのドラア川

 ユセフのようにザゴラに移住した人もいるが、ラクダやヤギを売り払った遊牧民たちの多くは、マアミドに移住した。「この村の半分以上は元遊牧民だ」という人もいるが、実際、村人と話してみると、かなり高い確率で元遊牧民だ。

 モロッコと隣国アルジェリアとの関係悪化が追い打ちをかけたと話す元遊牧民もいる。シェガガ砂丘からアルジェリアとの国境まではわずか24キロ。ちょうどイリキ湖が枯れる前後の1994年に国境は閉鎖され、それまで国境を自由に行き来できた遊牧民たちの移動が制限されてしまったのだ。

 つまり、温暖化やダム建設、国境閉鎖など、いくつもの要因が重なり合って、多くの遊牧民が遊牧生活に見切りをつけた。一方で、少ない人たちはツーリズムに希望を見出した。その典型となるのがサラム一家で、彼らは移動生活を捨てたかわりに、砂漠で暮らし続けている。マアミドで私が泊まった「Dar Sahara Tours」を経営する元遊牧民ムバラク(31歳)は言う。「でも僕たちはラッキーだった。世界中から観光客が来てくれるから、伝統を守ることができる。砂漠に住み続けることができるなら、それが一番だ。砂漠はいつも僕たちの心の中にある」