モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

一冊の本(in ザゴラ)

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北側から遊牧民の家とシェガガ大砂丘を望む。この日は風が強く、砂丘はかすんで見えた

 その日はテントが揺れる音で目が覚めた。ドアを開けると、外はまだ薄暗かった。冷たく張り詰めた空気を頬に感じた。寝袋に潜り直した。しばらくすると何者かが紙袋を漁っている音が聞こえてきた。「しまった!」。昨夜、野菜を入れた紙袋を外に出したまま寝てしまったことを思い出した。一週間分の貴重な食料だった。再びドアを開けると、目の前には2匹のヤギ。さらに5、6匹が周囲をうろついていた。しかし、私の目にまず飛び込んできたのは、砂丘だった。朝日に照らされた、オレンジ色の大砂丘。モロッコ最大のシェガガ大砂丘にちがいなかった。まさかこんな近くにあることを知らなかった私は意外な思いでしばらく眺めた。昨晩、ここに辿り着いたときは完全な闇に包まれていて、周辺の様子は分からなかったからだ。

 砂漠の遊牧民。彼らと会うためにここまで来た。一週間前、私はアハマド家のホームステイをいったん中断し、山を下りた。砂漠に知り合いがいるわけではないが、とにかく行けば、誰かが助けてくれるだろう。交通手段はもちろん、ウジダで買ったマウンテンバイクである。

 運悪く50年に一度と言われた大雪に遭遇し、標高2400メートルの山中に閉じ込められるトラブルはあったものの、何とかサハラ砂漠の玄関口ザゴラまでやって来た。町の中心部を歩くと、「砂漠ツアーに行かないか」とひっきりなしに声がかかる。この町にやってくる外国人の目的は砂漠だ。まだツアー会社が決まっていないなら、自分が斡旋して仲介料を稼ごうという人たちが往来から目を光らせている。これまでずっと静かな山で生活していただけに、久しぶりに触れるモロッコ人のがつがつした営業に思わず面くらった。

 私は中心部のホテルを避け、郊外にあるキャンプ場「キャンピングオアシス パルミエ」に向かった。アトラス山脈に源流を発するドラア川に面した、ナツメヤシの林を切り開いたキャンプ場だ。広い敷地には20人以上の白人が思い思いの格好でくつろいでいた。2月は一年で最もキャンプに適した季節で、彼らはキャンピングカーでモロッコ南部を旅して回っている。ほとんどは仕事をリタイアした高齢者の夫婦だった。彼らは別に観光地や景勝地を熱心に回るわけでもなく、こうしたキャンプ場で、犬の散歩をしたり読書したりしてのんびり過ごしている。

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ザゴラまでの道沿いには、土造りの家が無数にある

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Camping Oasis Palmierと私のテント

 このキャンプ場を選んだのは、ある理由があった。事前にザゴラのキャンプ場ついてネットで調べると、「日本人妻と元遊牧民の夫婦が経営するキャンプ場」と紹介されていたからだ。ザゴラの元遊牧民が経営するキャンプ場なら、砂漠の遊牧民を紹介してくれるかもしれない。そのような期待を抱いていたが、いざ行ってみると、残念なことに夫婦は何年も前に大阪に引っ越してしまったらしく不在だった。「次はいつ帰ってくるだろうか」。スタッフに訊いても、「さあ……3年後くらいかなあ」という答え。期待が大きかっただけに落胆した。すると落ち込む私を心配してくれたスタッフの一人が一冊の本を持ってきた。

「体験取材!世界の国ぐに モロッコ

 日本語で書かれた大判の、小学生向けの本だった。日本人の奥さんが持ってきたのだろう。著者が現地を取材し、灌漑や気候、庶民の暮らしなどが分かりやすく書かれていた。とりわけ私がひかれたのは、「遊牧民の学校」という章だった。荒涼とした大地の中に、石を積み重ね、布で屋根を覆った簡素な校舎。その前で、遊牧民と思われる子どもたちがにこやかに笑っていた。本には次のように説明されていた。

遊牧民の子どもたちは、学校にいかないことがあたりまえでした。遊牧民たちは、しばらくすれば学校があるかどうかわからないほかの土地に移動してしまうから、学校へいっても意味がないと考えられていました」

遊牧民が移動したら、学校がいっしょに移動すればいい あるフランスのボランティア団体が、このように考え、学校づくりを実行しました」

 ここに行ってみようと私は思った。遊牧民とともに移動する砂漠の学校。どんな学校で、どんな人が教えているのだろう。しかし、本には肝心の場所が書かれていなかった。移動する学校なのだから、当然といえば当然だった。

「この学校は今でもあるのだろうか」。私はスタッフに訊いてみた。

「今でもある」

「この近く?」

「いや、ずっと遠い場所だ」

「マアミドの近く?」

 マアミドは、ザゴラから約100キロ南にある、モロッコ最果ての町だ。それより先は砂漠しかない。ザゴラで当てが見つからなければ、マアミドまで行こうと考えていた。

「もっと遠い。学校に行きたいのか?どうやって行くつもりだ?」

「その……自転車で」

スタッフは「インポッシブル(できっこない)」という言葉を連発し、私をこうたしなめた。

「いいか、砂漠の遊牧民は、お前が想像しているよりずっと過酷な場所で生活しているんだ。道なんてない。四駆自動車でなければ辿りつけない。自転車で行く?インポッシブルだ。砂嵐に巻き込まれたらどうする?方角なんてすぐに分からなくなって、野垂れ死ぬだけだぞ」

「そうか。でも場所が知りたいな。だいたいの場所でいいから」

 私がそう言うと、彼は大きなモロッコの地図を持ってきた。驚くべきことに、彼には遊牧民の学校で先生をしている男の友人を知っているらしく、その場で電話して確かめると、マアミドから70キロぐらい離れたポイントに赤い印をつけた。そこは、砂漠のある一点だった。この地図を頼りにしても一人では辿り着くことは難しいように思えた。私は砂漠を自転車で走った経験がほとんどなく、どんな困難があるのか、可能なのかどうか判断がつかない。考え込んでいると、別のスタッフの男が一つ提案してくれた。

「砂漠の遊牧民を知ることはいいことだ。彼らの暮らしはどんなもので、どんな悩みを抱えているのか。もし、学校に行きたいなら、俺が知り合いに頼んで車で送ってやることもできる」

「でも、高いんだろう」

「そうだな、帰りも含めて2000ディラハム(約2万4千円)くらいだな」

 厳しい値段だった。ザゴラからマアミド、さらにシェガガ砂丘に行き、1泊2日で帰ってくるツアーの相場が1000ディラハム前後だから、強気な値段設定ともいえる。しかし、男はこれ以上まけるつもりはないようだった。

「砂漠の道なき道を走るのは危険なんだ。熟練したドライバーでも、ときどき不安に思うことがある。お前は砂丘に遊びに行くんじゃない。遊牧民しか知らないような場所に行くんだ。砂漠ツアーより高くて当然だ」

 男の言い分はもっともだと思ったが、私は断った。その学校がザゴラよりマアミドの方が近いなら、まずはマアミドに行くことにしよう。そしたら、私を助けてくれる人や、新しい方法が見つかるかもしれない。モロッコに長くいると、そうした希望的観測がどうしても湧いてきてしまう。キャンプ場で3日過ごした後、私はマアミドを目指して出発した。