モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

最もキツイ仕事

 この日はイハルフのアゴリ採りに同行する。

 アゴリは、穂はないがイネに似た植物の名前だ。羊、山羊、ロバ、ラバ、すべての家畜のエサとなる。ただし近くの山には生えていない。そのため週2回、片道2時間以上かけて採りに行く。体力的に最もきつい仕事だ。

 イハルフがラバとともに出発したのは午前7時50分。それを私はテントの中から見届ける。この時点で、イハルフがどこへ行くのかはまだ知らない。だが、イハルフが時々、この辺では見ない草をラバに載せて遠くの山から帰ってくる姿は何度か見てきたので、今日がその日なのだと分かった。私も急いで支度を整え、10分遅れて出発。すでにイハルフの姿は小さくなってる。自然と小走りになるが、地面にはこぶしより大きな岩がごろごろ転がっており、起伏もある。しかも標高2千㍍前後の尾根伝いなので、すぐに息が切れる。

 4キロほど進んだところでイハルフは振り返った。私が後を追っていることに気が付いたようだ。「コータロー?」と驚いている。イハルフは大きな声で言った。「今日は遠いぞ。アハマドがいる岩穴に戻れ」。私は「大丈夫。一緒に行こう」と返す。この辺ではまったく見当たらないあの大量のアゴリを、一体どこから持ってきているのか見てみたいのだ。イハルフは私の返事を待つでもなく、北に向かって歩を進め始めた。

 イハルフとの距離は開く一方だ。私の歩く速度も決して遅くない。いや、同じ人からはよく「歩くの早いですね」と言われるくらいだ。イハルフはラバと一緒に歩いているから普通は私が追いつくはずだが、イハルフの歩く速度が尋常ではなく速い(後日、一緒にスークに行くため山を下りたときは信じられないほどのスピードだった)。イハルフは何度か立ち止まり、「コータローは帰れ」と忠告するが、私は意地でもついていく。イハルフも諦めたのか、4つ目の山に差し掛かったところで、立ち止まり、午前9時ごろやっと追いついた。私を待ってくれているのかと思ったら、イハルフは携帯電話で誰かと話しているだけだった。

 イハルフの家は電波は届かないが、見晴らしのよい場所まで出ると電波が入る。ノマドも携帯電話を持っているのか、と驚く人がいるかもしれない。しかしノマドの携帯普及率は8割を超えるのではないかと思う(成人男性に限る)。文字が読めない彼らが使うのはあくまで「ガラケー」だ。20年くらい前のものじゃないかと思えるほど分厚いそれは、町で20DH(約240円)前後で買える。では誰と話すのかといえば、離れて暮らす家族の場合が多い。

 電話を終えると、イハルフは言った。「コータローよ、今日は40キロも歩くんだぞ。今日は寒いし、岩穴でアハマドとお茶を飲みながらゆっくり過ごせばよかったのに」。私は常に小走りでラバの後ろをついていく。1時間ほどたつと、これまで見られなかった茎の長い植物がぽつぽつと現れ始めた。それがアゴリだった。イハルフはラバを放し、50メートルほど崖を下る。すると平らな台地が広がっていて、アゴリが辺り一面に密生している。意外だったのは、約20㌔も歩いたわりにはトドラ渓谷が目と鼻の先にあることだった。渓谷出口の土産物屋まで1㌔ほどしかない。しかし、下は切り立った崖になっていて、上り下りはできそうになかった。

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アゴリを引っこ抜くイハルフ。根は地中深く張っているので、力のいる仕事だ

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束にしたアゴリをラバが待つ地上まで運んでゆく。私にはとても背負えそうにないほど重い

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ラバに積み終え、家路につく

 

 イハルフはまず、枯草を集めて火をおこすと、アタイ(お茶)を作り始めた。ナツメヤシの実とパンとともに、遅めの朝食をとる。

 アゴリは、触ってみると針金のように固く、しなやかだ。イハルフは鍬(くわ)を使いながら、根っこごと引き抜き、岩にたたきつけて土を落とす。抜いたアゴリはそのまま放っておき、少しずつ移動する。いつの間にか小雪が舞っている。北側の山は分厚い灰色の雲に覆われていた。イハルフが素手で仕事しているので、私は「私の手袋を使ったらどう?」と聞いてみた。しかし、イハルフは首を振る。手袋をすると滑って引っこ抜けないという。試しに私が手袋のまま抜こうとすると、するすると掌をすり抜けてしまう。イハルフはときどき手に唾を吹きかけて滑り止めにしている。

 作業が始まって3時間後。抜いたままのアゴリを一カ所に集め、上で待機しているラバのもとに運ぶ作業に入った。アゴリの束をロープでくくり、背中に背負って登る。重さは30㌔くらいあるのではないか。イハルフは息を切らしながら50㍍の崖をゆっくりと登っていく。それを2回繰り返す。1回目を運び終えると、再び茶とパン、ナツメヤシの休憩(昼食)となった。

 ロープ3本を使ってラバの背中から落ちないように固定し、午後2時ごろ出発。ナツメヤシの実をかじりながら歩く。帰りは行きと比べればゆっくりだが、それでも常人の歩く速度よりは速い。イハルフはときどき冗談で下ネタを言う。それを私はノートに書き留める。するとイハルフは「ノー」と言う。私が毎晩、その日ノートに書き留めたベルベル語は、家族が夕食を食べているときに発音を確かめるので、家族団らんの場に卑猥な言葉が登場することをイハルフは恐れているのである。それでも私は語彙を増やすために下ネタでもノートに書き留める。イハルフは言った。「アハマドには絶対言っちゃダメだぞ」。しかし、アハマドもアハマドで、私に下ネタを言っては「イハルフには言っちゃダメだ」と言っている。愉快なノマド家族なのである。