モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

イハルフの思いやり

 朝テントから出ると、イハルフがいないことに気づき、私は狼狽した。午前七時。この日、私はイハルフとスーク(青空市場)に出かける約束をしていた。私はたき火で暖をとっているアハマドに尋ねた。

「イハルフはどこ?」

「イハルフはもう出ていった。コータローは寝坊した」

 まさか、と思った。イハルフは、あの凍るように寒い山道を、暗闇の中、一人で下ってしまったのだろうか。ここから約20キロ離れたティネリールという町の郊外で毎週月曜日に大規模なスークが開かれる。野菜や家畜の飼料だけではなく、家具や日用品など生活に必要はものは何でもそろうので、ノマドも含めて近隣の住民たちが足を運ぶのだ。ノマドたちは何を買うのだろう。どのくらい金を使うのだろう。それを見届けようと思って、私は2日前からスークに同行したいとイハルフにしつこく伝えていた。そのときイハルフは、「午前五時にここを出るけど大丈夫か?」と聞いた。

「大丈夫。でも一応、出発するときにテントを叩いて知らせてよ」

 イハルフは笑いながらうなづいたはずだった。そして当日。私はちょうど午前5時ごろ目を覚ました。外は真っ暗で、イハルフの姿はまだ見えない。私は再びテントの中に入った。約30分後、イハルフが私のテントを叩いた。外はまだ暗かった。小雪が舞っているのが見えた。イハルフは言った。

「コータロー、今日は寒すぎる。太陽が昇ってから行こう」

 そのときは、そう言ったと私は思った。たしかに太陽が昇れば雪も止むだろう。私はテントの中で二度寝し、七時ごろにテントから出ると、既にイハルフの姿はなかった。つまり、イハルフは私にこう言ったらしかった。

「今朝は寒すぎるから、コータローは太陽が出てくるまで待て」

 それは、「俺は先にティネリールの町に行ってる」という意味を暗に含んでいたのだ。

「まあお茶を飲め」というアハマドの誘いを断り、私は転げるように山を下った。ティスギ村に着いたのが九時ごろ。7DH(約85円)払ってタクシーでティネリールへ。さらに3DH(約35円)でタクシーを乗り継ぎ、十時ごろ、スークの会場に到着した。 

 運よく、入り口でイハルフを見つけた。私のことを待っていてくれたらしかった。大きな藁袋を肩にかけていたが、中身はまだ空だった。何も買う気がないらしいのだった。

「何も買わないの?」

「金がない」

  イハルフはこの2日間、ときどき「次のスークはコータローが買ってくれよ」と言って、具体的に「ナツメヤシ、オリーブオイル、小麦粉、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ・・・」と欲しいものを挙げていた。しかし、この話は単なる冗談だと思っていた。最後には「私は金を払わないよ。君が買うんだ」と互いに笑いあっていた。私もイハルフたちの暮らしをできる範囲で手助けしたいと思ってはいるが、彼らの食料や日用品を買う金まで負担するつもりはない。私のような風来坊にそこまで頼っても困るし、彼らのためにもならないだろうと思っていた。 私はイハルフにもう一度尋ねた。

「本当に何も買わないの?」

「何も買わない」

  私はイハルフがどんなふうに、どんなものを買うのか興味があった。私自身も自分の食料を少しだけ買い足そうと思っていたが、イハルフが何も買わないのなら、一緒にスークを回る意味がない。イハルフは少し遠慮気味に、「タクシー代が欲しい」と言った。もともとタクシー代は私が持つつもりだったので、往復代の20DH(約240円)を手渡した。

「じゃあ明日また会おう」

 この日はイハルフたちの元には戻らずティスギ村の典子さんの宿に泊まる予定だったので、私たちは握手して別れた。イハルフは空の藁袋とともにタクシーに乗り込んでいった。

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ティネリール郊外で開かれるスーク。近郊の農家が新鮮な野菜を持ち込み、朝から大勢の人でにぎわう

 

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これだけ買って10DH(約120円)

 

 私には分からなかった。イハルフは何のためにスークに来たのだろう。本気で私をあてに必要なものを買い出すつもりだったのだろうか。それとも、ノマド仲間と単に話をするために来たのだろうか。

  答えは翌日に分かった。夕方に山に戻ってくると、ノマドテントの中で見慣れぬベルベル人3人とイハルフが談笑していた。ティネリール在住の彼らはイハルフの友達で、ときどきトレッキングも兼ねてこの一家を訪ねてくるそうだ。3人のうち1人が英語を話したので、イハルフはなぜ昨日スークに来たのか聞いてみてもらった。そのベルベル人は、イハルフの言葉を通訳してこう言った。

  「コータローがスークに行きたいと何度も言うから、案内するつもりだった。でも俺は金がないから、何も買わなかった」

  つまり、こういうことだった。イハルフは、もともとスークに行く予定はなかった。しかし、私が「一緒に行きたい」とせがむから、予定を変えて、わざわざガイド役を買ってくれたのだった。私は、ノマドは週1回のスークに必ず行き、必要なものを買いだすのだと思い込んでいたが、それは間違いだったのだ。後でわかることだが、この辺りは1月に入って3回も雪が降り、イハルフの羊は15匹以上死んでいる。だからまだ今年は一匹も売っていない。本当に何かを買う金がなかったのだ。スークの日、おそらく彼は放牧か、別の仕事があった。しかし、私のガイド役を務めれば半日がつぶれてしまう。ティネリールと彼の家は、往復するだけで6時間以上かかるからだ。だから、あんなに朝早くに出かけようと言ったのだ。しかも、その日は寒いから、「コータローは太陽が出てから山を下りてこい」とイハルフは終始、私に優しかった。自分は小雪が舞う中、真っ暗な山をひとりで下っていったというのに。 私はイハルフに「シュクラン(ありがとう)」と言った。もっと感謝の言葉を伝えたかったが、私にはそのためのベルベル語をまだ知らないのだった。