モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

遊牧初日(前半)

 日が昇ったのは午前8時を過ぎていた。ここは四方が山に囲まれているため、太陽の出が遅いのだ。モロッコはこの時期、陽が出ればうっすらと汗をかくほどだが、なければジャケットを着ても寒い。テントから出ると、既に全てのヒツジが外に出ていた。まだ気温が低いため微動だにせずに目を閉じているものもいれば、地面に落ちている枯れ草を食んでいるものもいる。ほら穴の前では、イハルフがアハマドの髭剃りを手伝っていた。彼らは鏡を持っていないので、ひとりではできないらしい。アハマドの顎に石鹸水をつけて、ゆっくりとそり落としていく。その間、ヒツジたちはアビシャの誘導に従い、家のすぐ西の斜面を上らせていく。5歳のファティマもヒツジの群れの中にいて、楽しそうに歌っている。静かな朝だった。まわりは木が一本も生えていないから、鳥はいない。ヒツジの鳴き声と、ヒトの話し声しか聞こえない。

 アハマドの髭剃りが終わると、イハルフが既にだいぶ上のほうに移動したヒツジたちを追い始めた。急こう配の斜面を上りきると、およそ80メートルほど高度が上がる。頂上からはほかの山々まで見渡せ、雪を抱いたアトラスの高峰が見えた。イハルフは、その高峰を指さし、「アットフル アフラン ティズィ」と言った。後から知ることになるが、それは、「頂上に雪が見えるぞ」という意味だった。

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岩山を歩く羊と先頭をゆくイハルフ

 アハマドの髭剃りが終わると、イハルフが既にだいぶ上のほうに移動したヒツジたちを追い始めた。急こう配の斜面を上りきると、およそ80メートルほど高度が上がる。頂上からはほかの山々まで見渡せ、雪を抱いたアトラスの高峰が見えた。イハルフは、ずっと遠くを指さし、「アットフル アフラン ティズィ」と言った。後から知ることになるが、それは、「頂上に雪が見えるぞ」という意味だった。

 私たちは頂上で少し時間を過ごしたあと、南の斜面を下り始めた。ヒツジたちは石や岩の間にわずかに生えている草を食みながら、ゆっくりと下っていく。イハルフは斜面にうまく岩を積み重ねた一畳ほどの石室に入った。ここが、彼らの「浴室」であるらしい。中に水が入ったペットボトルが見えた。

 15分ほどしてイハルフが外に出てきた。石鹸は持っていないから、石で体をこすった。そんな仕草を私に見せる。

 斜面を下ると、ヒツジの給水が始まる。岩でつくった囲いの中に、布で覆われた5リットル入りのペットボトルが20本ほどある。そのうち10本を取り出し、アビシャとイハルフが盥(たらい)の中に注ぎ込んでいく。アビシャが、まだ斜面の草を食んでいるヒツジの群れに戻り、一角に石を投げると、それに反応した20匹ほどが盥のほうに移動し始めた。1グループ目が飲み終えると、岩で作った囲いの中に入り待機する。そして、2グループ目。3グループ目の給水が終わると、残った水は布で濾過して再びペットボトルに戻していく。水は無駄にはしないのだ。そのころ、ズンノがロバ3頭を連れてやって来た。空になったペットボトルをここで回収し、渓谷まで水を汲みに行くのだ。

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たらいに水を入れるイハルフ

 

 ここから、進路は北に向かう。相変わらず石と岩だけの世界が続く。

 「去年は雨が少なかった。だから草が育っていないんだ」

 イハルフが、苦々しそうに言う。この山には、ヒツジが食べられる草の種類は5つほどある。どれもが一つ一つの葉は豆粒ほどの大きさしかない。ヒツジは、そのわずかな緑を、むしり取るようにして食べている。上の方を少しかじっては別の草に移動していく。

 途中、ヤギを放牧している別のノマドとはち合わせた。年齢はイハルフと同じくらい。こちらはアビシャとイハルフの二人だが、相手はひとりだけで放牧している。イハルフはアビシャを先頭に行かせ、ノマドの井戸端会議が始まった。

 「この日本人がな、昨日から俺のところにテントを張ってるんだ」

 「今日は放牧に付き合うんだとさ」

 そんなことを言っているのだろう。相手のノマドは、私の方をちらちらと目でうかがっている。彼らの会話の調子は、私には少し不自然に思えた。互いの距離は2メートルしか離れていないのに、やけに大きな声で話す。互いにはきはきとしゃべり、相槌もなければ、言葉を被せることもない。そのわけは、放牧の帰りに気付いた。彼らは普段から100、200メートル離れたところでも平気で会話をしている。岩山には木は生えてないし鳥もほとんど生息しておらず無音の世界なので、それくらい離れていても互いの声は十分届くのだ。それくらい離れていると相手の表情はうかがえないし、相槌を打っても伝わらないので、劇中の人物のようなしゃべり方になったのだろう。

 広い平坦な台地に出ると、昼食の時間になった。メニューは、朝にズンノが焼いたパンと乾燥したナツメヤシである。イハルフが灌木の枝をかき集めて火をつけて茶をわかす。茶は、中国茶と砂糖を煮たものだ。大きな角砂糖を入れるので、とても甘ったるい。「さりげなく茶をつくるノマド」というのは、前回訪問したときにとても印象的だった風景で、私はうれしくなった。彼らは外を出歩く際、リュックに必ずポットを入れていて、その辺の枝木を拾ってサッと火をおこす。