モロッコ遊牧民探訪記

遊牧民との生活。ロバとの旅の記録

もうひとつのアトラス越え⑩初めてのモロッコ

 三度トドラ渓谷に戻ってきた私は、再びマラケシュを目指すことにした。ビザ無しで滞在できる3カ月の期限を迎えるので、モロッコから出なければならない。既にマラケシュからマドリード経由ポーランド行きの航空券は買った。マラケシュに戻るには、もう一度アトラスを越える必要があるが、私は既に走ったことがある国道9号ではなく、ワルザザートとドゥムナットを結ぶ県道とでもいうべきR307を選択した。

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どうしてそんな場所に・・・と思わずにはいられない家

 R307を、私は2日かけて踏破したが、その間、車といえば、タクシー1台と欧米人が乗った車が1台の計2台しかすれ違わなかった。それもそのはずで、谷間を流れる川に沿って作られたこの道は、車1台がやっと通れる広さしかなく、途中がけ崩れが起きてそのままになっている場所も2か所あった。川の増水で水浸しになっている箇所もあった。後半こそ集落間を走る乗り合いバンが走っていたが、「アトラス越え」のルートとしては、物好きな観光客がまれに通る道、といったものだった。しかし、そんな「無車地帯」にも、ベルベル人の集落は存在していた。一体、どうやったら村に辿りつけるのだろうといった谷底に、日干しレンガで作られた家々が集まっているのだ。ベルベル人は、征服者であるアラブ人によってアトラス山中に追いやられたという歴史がる。これらの村々からは、「外の人間を入れてたまるか」といった気概のようなものが私には感じられた。

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村に入るためには、R307から急斜面の崖道を下りなければならない

 峠に辿り着いたころには、日が暮れていた。私はテントを持っていないので、夜になると気温がぐっと下がるここでは、宿を見つけなければならない。しかし、車も全く通らないこんな辺鄙な場所に、果たして宿があるのだろうか。分からなかったが、とりあえず山を下り始めた。しかし、運が悪いことに、間もなく、タイヤがパンクした。峠から先は道が舗装されておらず、粗い砂利道を走ったので、その間にやられたらしい。これまでも自転車は何度かパンクしていたが、私は応急セットというのを持ち合わせておらず、その都度、村の雑貨屋などに持ち込んで修理してもらっていた。しかし、この山の中では、雑貨屋はおろか村に辿り着くのでさえ絶望的に思えた。間もなく完全に日が沈みきり、闇が一帯を支配した。遠くから馬蹄が聞こえたかと思うと、それはロバに乗ったベルベル人だった。畑仕事を終えて、家に帰るのだ。真っ暗で、私はライトがなければ何も見えないのに、彼らは何も持っていない。ベルベル人はおそろしく夜目がきくのだ。「近くに宿はないかな」。英語とスペイン語で聞いてみたが、通じない。「寝るところを探しているんだけど」。ジェスチャーで伝えようとするも、理解してもらえない。私は諦めて先を急ぐことにした。どちらにせよ、進むしかないのだ。

 やがて光が漏れている建物が見えた。おかし屋だった。喉が渇いていたので、コーラを一瓶頼んだ。普通は4DHか5DHなのに、店主は「10DH」と言った。疲れてるときにぼったくろうとしないでくれとうんざりしながら、そんなわけはないだろうと主張した。しかし、店主は頑なに10DHを要求する。私は、「ならいい」と言って店を出た。すると店主が折れて、「6DH」で妥協した。私は「自転車を直せないかな」と聞いてみた。言葉は互いに通じないのでジェスチャーだ。店主は即座に理解したが、単にタイヤの空気が抜けただけだと勘違いし、空気入れを持ってきた。「パンクしているんだけど」と言うのだが、理解してもらえない。どちらにせよ、ここではタイヤの修理をするための道具はなさそうだった。タイヤに一応空気を入れて、再出発した。

 3分ほど道を下ると空気も抜けてしまったが、運よく村に辿り着いた。幸い、R307沿いだった。カフェテリアのような建物があった。「こんなところにも人の営みがある・・・」。ひそかに感動しながら入口に立つと、10人ほどの男が集まっていた。中に入ると、彼らの目線が私に集中したが、話しかけようとする者はいない。唖然としているようにも見えた。ひとりの青年に、「この近くに宿はないかな」と尋ねた。青年は少し英語が話せた。ここから2キロ先にあるということだった。自転車はもう漕げないので、押しながら宿を目指した。

 暗闇の中で「Gîte」という字が浮かび上がった。ジット、フランス語で「民宿」という意味だ。ドアをたたくと、ベルベル人の男が出てきた。フランス語を少し話すが、英語とスペイン語は話せなかった。腹がすいていたので、夕食と朝食込みの値段を聞くと、1泊200DH(約2200円)という。観光地でも相場は150DHなので、高めの値段を言っていることが分かった。部屋を見せてもらうと、6畳くらいの部屋にマットが6つ並べてあるだけだった。おまけにトイレもシャワーも水が止まっているという。それで200は高すぎる。「100なら泊まりたい」と言っても、「150」までしか下がらない。値札がないモロッコでは、交渉するとき「この値段なら買える」という自分なりの基準を持つことが大切だ。たとえ宿はここしかないとしても、私は100以下でないと泊まるつもりはなかった。主人が折れないので、宿を出ようとしたとき、やっと話がまとまった。

 部屋に荷物を下ろすと、主人は離れの建物に私を案内した。なんだろう。ついていくと、4・5畳くらいの部屋に通された。ここで夕食をとるらしい。年季の入った羊毛のカーペットが敷かれていて、老婆が座っていた。老婆は主人の母親らしく、無言で私のことをじっと見つめている。主人は私に尋ねた。「お前はアメリカ人か?」。その問いに私は仰天した。この主人は、アジア人を見たことがないのだ。そんな人間が、モロッコでは今もいるのだ・・・。やがて主人の妻が部屋に入ってきて、卵とトマトを煮込んだタジン(鍋)と冷たいパン、ミントティーを出してくれた。主人に食べるよう勧められ、スプーンで一口いただくと、主人がそれに続いた。そして老婆が口にした。またしても私は驚いた。なんと、このタジンは私ひとりのものではなく、3人で食べるものだったのだ。宿代を値切ったから、経費を抑えようとしているのだろうか。これでは私がこの一家の食事にお邪魔しているみたいではないか。しかし、主人から悪気は全く感じられない。テレビからはコーランが流れていた。私の目線に気付いた主人は、つたない英語で「コーランは美しい。完璧だ」と言った。すると主人は食事の最中にも関わらず、その場でお祈りを始めた。跪き、額を深々と床に額づいて感謝の祈りを捧げている。コーランとお祈りとタジン鍋。私はすごいところに来たなと思いながら、これがベルベル人のおもてなしかもしれないなとも思った。主人は私を客として特別扱いせず、家族のように迎え入れてくれたのだ。

 食事を終えると、主人は宿の記帳に名前を書くように言った。記帳をめくると、私は1カ月前にスイス人3人が宿泊して以来の久しぶりの客ということが分かった。<続く>